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葦嶽山ピラミッド…プレミアム・バージョン2010

in Hiroshima Pref. / Mt. Ashitake pyramid

Copyright(C) by Taizan 1996-2014
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”創造のピラミッド” Gainendesign-Labo.

葦嶽山ピラミッド・プレミアムバージョン本文

広島県庄原にある葦嶽山は最も有名な日本のピラミッドです。 昭和初期に酒井勝軍(かつとき)によって探検され世に知らしめられました。 庄原の地元ではピラミッドの看板さえ立てられ、既に地域ぐるみで観光化されています。
自動車が入れる所から約2時間の獣道行でようやくたどり着くことができます。 奥深い山間部の尾根から忽然と姿をあらわす葦嶽山。瞬間、ピラミッドであることが閃きます。
この山中に数百トン規模の巨石群があります。その配置の様子は将にピラミッドの参道です。 明らかに人工が加わった夥しい石柱に、見る者は感嘆のあまり声を失います。
日本のピラミッドに典型な拝殿山としての鬼叫山。
ここから振り返ったときに拝観できる葦嶽の麗姿は、将に三角錐。 酒井勝軍が雨中の夕刻に,この山を発見したときの感動が伝わります。
日本のピラミッド探訪は葦嶽から始まります。 1996年泰山記


1992年に葦嶽山へ初めて登拝してから既に18年が経過しました。いまだにその記憶は鮮明に残っております。
「泰山の古代遺跡探訪記」の中でも圧倒的に読者諸氏のアクセスが多いのが「日本ピラミッド;葦嶽山」。 1996年に初ONWEBしてから殆ど手をつけていないコンテンツですが、ITの飛躍的進歩にも助けられ、より鮮明な 画像を閲覧できるようになりましたし、この16年間の古代遺跡探訪の経験や思いも少なからず蓄積されてきています。
また、先人酒井勝軍氏は、いまだ謎多き人物ではあるものの、その先見力と行動力はいまもってわたしたちを魅了して止みません。
昭和9年という80年近くも前の、人跡未踏地への探索行はどれほど困難なものであったのか計り知れないものがあります。その軌跡に思いを馳せながら 先人へのリスペクトを込めて、あらためて「葦嶽山探訪記プレミアムバージョン」をONWEBする次第です。 2010年泰山追記

関連重要探訪記2014→阿伎留神社奥宮;琴平神社の大物主大神の磐座



「日本ピラミッド」と謳われる葦嶽山の所在地概念図

↑広島市内から東北方向に約90Kmの庄原市にある。比婆山の傍。

↑葦嶽山の東方向約10kmに名勝帝釈峡がある。
酒井勝軍の初回探索行は東城町から西進するかたちで 帝釈峡を抜けて葦嶽山麓の本村まで行っている。

↑県道23号線から県道422号線へのT字分岐から野谷と灰原に分かれる。酒井は夕刻野谷ルートから登拝した。
われわれが1992年に登拝したルートは南の灰原ルートである。


参考;酒井勝軍が行った昭和9年4月21日の初回葦嶽山探索のルート:出典『太古日本のピラミッド』八幡書店復刻版
国鉄にて東京〜福塩(広島県福山と塩町を結ぶ)線の府中で一旦下車、府中の東二つ隣駅の新市(しんいち)から自動車で県道26号線を 北上し、神石町を経て東城町へ。そこから西方向へさらに自動車を走らせて名勝帝釈峡の傍を通りながら、葦嶽山麓の本村付近に16:00頃到達。
葦嶽山登山口を探しながら18:00頃から野谷辺りから渓谷沿いの登山路を通り、19:00頃拝殿山である鬼叫山のドルメンに到着。 鏡岩付近から南にある葦嶽山の山容を確認、その日は一旦下山。当日は東城町まで戻り宿泊し帰京。
1ヶ月後の5月29日、第二回探索行実施。同じく野谷からの渓谷ルートを登り、拝殿山分岐点より葦嶽山山頂に至る。


町外れの県道に「ピラミッド」の看板が…。1996記


葦嶽山登拝の拠点となる広島県庄原市へは、広島市内から高速の広島自動車道を北上し、中国自動車道と交差するところから東北方面へ90kmほどひた走る。
庄原ICを降り、県道432号線を南下し、県道23号線とぶつかるところを峰田町方面へ左折する。道の左に大吟醸酒「峰仙人」で有名な八谷酒造の酒蔵が見えてくる。 ちなみに1992年当時峰仙人を数本買って家に送ったが、一升瓶のラベルには葦嶽山ピラミッドが描かれていて嬉しくなったことを思い出す。
八谷酒造から5kmほど東北方向に進むと道路の左側に「天を仰いでいる狛犬」で知られた蘇羅比古神社が鎮座している。そこからさらに1kmばかり走ると県道422号線に入る分岐に出る。 そこに「日本ピラミッド」の案内看板がある。
クルマ2台に分乗し、野谷を過ぎて灰原のゆきどまりまで行き、そこから葦嶽山を南側から登る稜線コースを歩いて葦嶽山登拝をめざす。
2010年泰山追記



王道である本命の稜線ルートを灰原から入り、南側から葦嶽山登拝を試みる。 稜線ルートは日本のピラミッド山参拝の”表参道”に相当すると思うから…とかっこよく言いたいところだが、当時はクルマで行ける所まで行った デッドエンドがたまたま灰原の登り口だった。
2010年泰山追記



灰原から登る稜線ルートを小一時間も行くと登山路中央にデンと二つのサイコロ状の石が突然出現する。 一隅が頂点となって三角形状を成していることや、線状の岩刻痕跡やバッテンマークがあることを考慮するならば、ピラミッド山登拝路としての ”サイン”となっていると言えるだろう。「入口標識は」ピラミッド山参道には重要なつきものなのである。
2010年泰山追記



その後、しばらくはこうした緩やかな稜線の登りが続く。
このとき同行したメンバー全員が驚いたことは、灰原ルートの両脇の樹木が両サイドになぎ倒されるように倒れ続けて いる光景であった。髪の毛を頭の真中から両方に綺麗に分けるがごとくであり、「おそらくUFOがここを低空飛行したのでは!?」 などと冗談半分、驚愕半分で歩いたのであった。 2010年泰山追記


山中にはこうした巨石がごろごろある。1996記


「参道入口標識」である2連の三角石から1時間以上登ったあたりから、空気感がガラッと変わってくる。 道の両サイドには巨石群が増え始め、葦嶽山が迫ってきていることを感じさせてくれる。 2010年泰山追記



樹木が茂っていてルート上からはまだ葦嶽山は見えない。 2010年泰山追記


2時間ほどの山歩きの後、尾根の林の隙間から出現した葦嶽の麗姿。1996記


さらに進むと樹木のカーテンが途切れる場所に出て、葦嶽山の優美な姿が目の前に現れた。同じような感覚を昭和初期に酒井勝軍一行もきっと 味わったに違いない。黄昏時に葦嶽山の山容を初めて拝謁した彼らの感動は、いかばかりのものであったことか…。
ただし酒井勝軍一行は野谷ルートから南方に葦嶽山頂を仰いだのだが…。ちなみに、この場所から山頂に居る人影が見えた。すなわち、近し!300mほどの距離。 2010年泰山追記


葦嶽山八合目当たりの通称鷹岩。表層の溶融したような岩肌は要着目。1996記


灰原からの”表参道”とも言える稜線ルートの最終盤で、一旦下りに入り、それから一気に葦嶽山の南面を登る。 頂上間近に現れるのがこの鷹岩。ピラミッド山には付帯して当然の立石であると思われる。葦嶽山より南方向を撮影していることになる。 2010年泰山追記



風化が激しいせいで原型をイメージすることさえ難しいが、上にへばりついたような岩の岩質の違いが大いに気になるところ。 2010年泰山追記



鷹岩を過ぎると頂上への最後の登りとなる。頂上へ続く道上に累々と巨石群がある。 2010年泰山追記



葦嶽山頂上直下南面にある巨石群。酒井は第二回探索時にこの付近で方形及び円形磐境構造を確認している。 2010年泰山追記


急峻な斜面に立っている烏帽子岩の遠望。1996記


酒井の言ではこの岩は「通称観音岩でエビス岩」であるとしている。形体的な烏帽子は後世の命名であり、本質的には エビス=遠隔の民を意味するものではないかと指摘している。烏帽子岩は葦嶽山頂から西北方向に200m位降りたところにある。 2010年泰山追記



頂上直下周辺にはこのような言わば”人頭石”状の巨石などもある。 2010年泰山追記


頂上には太陽石の崩壊した跡が残っている。1996記


この球状の石は、酒井が撮影した頂上写真にも同様のものが載っており、かれはこれを方形磐境の東北方向の隅石であるとしている。  2010年泰山追記



葦嶽山の頂上の北から下ってゆくと、拝殿山である鬼叫山へ行く道と野谷方面から来た道とがぶつかるところがあり、そこが鞍部となっている。
昭和9年の第二回探索行は第一回の1ヶ月後であったが、その間にこの鞍部に茶店ができ、いくつもの道標ができ、樹木が切り払われて 道が整備されていたことに酒井は嬉しくもあり、驚きでもある…というような感想を述べている。1992年当時はこの付近に休憩所があった。 2010年泰山追記



拝殿山へと登ってゆくと、酒井が最初に出会った『3つのドルメン』に出会う。たしかにドルメン状を形成している 巨石群である。ただし私としてはこれまでいくつも見てきた『石門;聖地へのゲート』にも相当すると考えている。 2010年泰山追記



ドルメン石があるところから振り返って見た、葦嶽山。実物はさらに美しく神々しい。 2010年泰山追記



酒井は「ドルメンは2個の自然石の台石の上に1個の自然石を横たえる」のが理想…と言っている。 花崗岩の摂理面はこのような平滑面を呈することがある(島根県の斐伊川にある鬼の舌振…など)。 われたかけらが丁度1枚下の巨石に載っかっている形になっている。 2010年泰山追記



この天板状の1枚岩がそれだ。 2010年泰山追記


神武岩。百トン以上はある人工的な石の角柱。
言うまでもなく、獣道しかない山奥に人足が運ぶ訳が無い。
私たちは謙虚に太古の超技術に想いを馳せなければならないだろう。1996記


自然の崩壊ならば原型のイメージが掴みやすいが、人的破壊が加わるとそれも分からなくと酒井は言う。 通称神武岩の周辺状況がこれだ。石柱部分は何らかの構造が形成されているようだが、直下には残骸が廃棄されているようだ。 酒井は葦嶽山探索行の後、『太古日本のピラミッド』を世に問うているが、当該書籍はその後官憲により発禁処分となり、 葦嶽山にも官憲の手が入って、「古代神殿」と思しき石組構造を破壊して谷底に落とした…と言われている。 2010年泰山追記



神武岩という呼称のルーツは実は「セム岩」ではないかと酒井は指摘し、前述のエビス=遠隔の民と対峙して、 セム族(葦嶽山ピラミッドの建立者が我等と同胞のセム族であるとしている)を表象したセム岩があると考えるのが 妥当と婉曲的に言及している。私もこの指摘に賛成である。対立関係の併設という概念の方がピラミッド山構築の 概念として”論理的な美しさ”を感じるからである。 2010年泰山追記



それにしても「神武岩」周辺の佇まいは、建築デザイン的にも結構麗しいと思う。…う〜ん!実によろしい! 2010年泰山追記



「神武岩」直下は崖になっている。四角柱状の残渣が転がっている。こういうところは探検の価値がある。昭和初期に破壊された重要遺構の残骸が かなり埋もれているように思われる。 2010年泰山追記



「神武岩」直上の方位石。十文字に切られた溝が方位を示すと言われている。酒井の言では、往時は北極星に照準を合わせていたそうだ。 酒井の記述によると拝殿山鬼叫山には3基の方位石がある。そのうちの一つがこれ。 2010年泰山追記



その方位石の先端から「神武岩」を見降ろしたところ。石柱の上に空いた穴に伝説では”夜光の珠”が嵌められ、ご神灯の役割を果たていたと言われている。 2010年泰山追記



「神武岩」や「方位石」周辺の状況。特筆事項は景観の素晴らしさである。ピラミッド山につきものの構図である。 2010年泰山追記


拝殿山にある巨大平面の鏡岩。太古、文字通り鏡のような面が
東から登る太陽に反射して輝いていた…と言われている。1996記


「太古日本のピラミッド」の記述ではこの鏡岩が東面を向いているとある。すなわち朝日を反射する構造だ。 東向きの巨大な平滑面の下部は、鏡面を削り出しだした、削り残しの部分が確認できる。よくぞここまでの平滑面が残存したことだと感心する。 夏至、春・秋分、冬至の朝日を全て反射できる。 2010年泰山追記


拝殿の鬼叫山にある巨石群。1996記


先述の「神武岩」「方位石」をさらに登ると第三の「方位石」があり、この部分にはその他の巨石も集中している。
1992年当時には「方位石」と書かれた朽ち果てた看板しかなかった。1996年当時の初期ONWEBでは、その特異な 形状から『獅子型岩』として紹介したのだが、現地では『獅子岩』として紹介されている。獅子岩という命名は宮島などでもあり神楽岩の一種として十分にあると思う。 鬼叫山の『獅子岩』については現況、この部分の方位石とのセットでの意味するところが今のところは明確ではないのではあるが、現地の看板が提示するように、 この『獅子岩』の面する方向は西であり、近場では近隣に関連山である大山があるし、遥か西方には酒井勝軍が言うように”同朋セム族”が建立したギゼのピラミッドがある。
なんともロマンのある話ではないか。いずれにせよ名称を伴いながら長く残存することが巨石には大切なことである。 2010年泰山追記



鬼叫山頂上部の方位石は風化によって相当形状が変化している。 2010年泰山追記



現況『獅子岩』として通称される鬼叫山頂上部の特異な岩。これは左面。正面が西を向いている。 方位石は何らかの他の役割を担った巨石(群)とのセットで存在すことが多いということを考慮するならば、 この鬼叫山最上部の巨石群も特別な役目を持たされているはずである。 2010年泰山追記


拝殿山にある方位石。1996記


こちらの方位石も明確に十文字に溝が生成されている。 2010年泰山追記



東西方向のスリット。 2010年泰山追記



拝殿山鬼叫山頂上部の神籠石状の列石。拝殿山頂上部分は明らかに聖なる場所なのだ。 2010年泰山追記


鬼叫山から返り見た本殿、葦嶽。1996記


酒井勝軍氏著の『太古日本のピラミッド』の口絵イラストにある光景がこれだ。 2010年泰山追記



拝殿山頂上付近にはまた別の神籠石状の列石がある。鬼叫山頂上付近を掘り返せば夥しい数の遺跡が出てくるだろう。 2010年泰山追記



拝殿山から野谷ルートを下ってゆく途中にある巨石。渓谷の参道にはよく”亀石”が存在するが、ピラミッド山の 構成要件としては「標識である三角石」を兼ねた「亀石」に相当するものであると思う。 2010年泰山追記



野谷の渓谷ルート途中にある小ぶりの「岩戸構造」。ピラミッド山には陰の象徴としての「天の岩戸構造」が必須の付帯要件であると 考えているが、こうした小規模の岩戸だけではなく、葦嶽山にはどこか別のところに巨大な陰の構造があるのではないかと推察している。 ちなみにこの写真は私にとって非常に特異な写真であって、是非論はあろうが、私には古代人や動物の顔がいくつも見える。数多い 写真の中でこの写真にだけ…なのだが。 2010年泰山追記



拝殿山から野谷ルートのつづら折れ道をひたすら下る同行メンバー。ちなみに灰原の稜線ルートを陽の道とするならば、 野谷の渓谷ルートは陰の道で、ピラミッド山参道には両方が付帯することが多い。 2010年泰山追記



花崗岩山特有の現象ではあるが、摂理による崩壊が角柱形状の岩海になっているところもあった。 2010年泰山追記


葦嶽山近隣にある名所、帝釈峡の雄橋(おんばし)。
天然記念物であるが、太古の人工物という見方もある。
橋梁部は確かにセメントのように見える。1996記


酒井勝軍一行が帝釈峡経由で葦嶽にアプローチしたことも、私たち一行が逆に葦嶽登拝後に帝釈峡に寄ったことも、何か意味があるように思える。
それは葦嶽山は、これは酒井も言及していることであるが、単独で存在するわけではなく、東の御神山、西の大山を含む少なくとも7つの関連山と共に 大構造体を形成していると考えられるからだ。ちなみに御神山は未踏ではあるが、帝釈峡に行く途中で見えた美しい三角形の大型ピラミッド山である。 そしてこの山にも夥しい巨石群があるのだ。
それにしても気になるのはこの写真にある帝釈峡の雄橋だ。石灰岩でできている自然の橋梁なのだが…果たして下を流れる帝釈川のエネルギーで 巨大なトンネルをえぐれるものなのか…。興味は尽きない。
2010年泰山追記

参考資料;『泰山の古代遺跡探訪記が捉えているピラミッド山の概念構造』
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